なぜ君は絶望と戦えたのかー木村洋の3300日

光市母子殺害事件の被害者の夫であり父である木村さんの物語

 

法曹三者の一人として、是非読んでおきたいと思った一冊。

直接体験していない私がこの本を読むだけで体温が上がる一冊。読んでいるだけで目頭が熱くなり、感情が混濁し、抑え切れなくなる。本人の気持ちはどれほどだろうと考えずにはいられない。

 

この事件をきっかけに、被害者への支援制度が立ち上がっていく。他方で、被害者への配慮がなされていないことを知りながら、それに手当てをしてこようとしてこなかった法曹三者の歴史でもある。法曹になる者として、反省しなければならないと思う。そして、現在の制度でも、制度の被害者になっている人はたくさんいると思う。被害が現実化する前に、これに向き合っていくことが法曹三者には求められるのだろうと思う。

 

「君は、この職場にいる限り、私の部下だ。その間は、私は君を守ることができる。裁判は、いつかは終わる。一生かかるわけじゃない。その先をどうやって生きていくんだ。君がやめた瞬間から私は君を守れなくなる。新日という会社には、君を置いておくだけのキャパシティはある。勤務地もいろいろある。亡くなった奥さんも、ご両親も、君が仕事を続けながら裁判を見守っていくことを望んでおられるんじゃないか。」

 木村さんは、仕事を通して社会に関わる中で自尊心を取り戻して、回復していく。社会の絆がどれほど本人にとって価値があるかを思い至る。

 

 木村さんは、一審判決前に遺書を書いていた。死刑判決にならなければ死ぬ覚悟であったという。亡くなった妻を見つけたとき、抱いてあげられなかったとの思いから自責の念を強めていた。何ら落ち度のない被害者の立場であるにもかかわらず自分を責めていたのである。被害者の立場を慮ってあまりある。

 一審において、遺影を傍聴席に持ち込むことは許可されていなかった(現在では改善されている。)。この時、裁判所、裁判長からは、遺影を持ち込んでいけない理由の説明もなく、裁判官と会う機械させ与えられなかった。このような姿勢は、裁判所の独善的な形を物語るものだと思う。もちろん、裁判所としてできることとできないことはあるだろう。ただ、誠意を見せるかどうかで物語は全く異なる。実際、木村さんは、高裁が死刑判決を下さなかったときにも、判決文から裁判官の苦悩を読み取り、1審ほどの反発を見せなかった。どこまで裁判官が誠意を見せてくれるかどうかなのだと思う。

 裁判官は、被告人が反省したと評価することはあるが、果たして本当にそのように評価する力量があるのだろうか。疑問である。

 木村さんは、死刑判決後、被告人と会っている。そのとき、被告人は、公判廷での立場と異なり、反省の弁を述べ、死刑判決の価値を話していた。死刑判決にはどのような効果があるのだろうか。死刑判決を受けることで、自身の命を脅かされたとき、犯罪者は、命の価値を理解するのだろうか。死刑判決には、命の価値を理解させる価値があるのだろうか。