子どもが生まれても夫を憎まずにすむ方法

自宅に帰ったらこんな題名の本がいてに置いてあったら。。。。戦慄しますね笑

しかし、とてもいい本でした。妻が読むにも、夫が読むにもとてもいい本でした。

夫婦関係から父母関係に変わるとき、夫婦は変化に対応しなければいけない。しかし、それはとても難しい。著者は、カウンセラーから捜査官まで幅広く多くの方に話を聞いて夫婦関係の参考にしていく。激昂した妻への対応は、テトリストに対する捜査官と同じ感覚を抱く著者に脱帽。

 

 

父母が喧嘩することが必ずしも悪いわけではない。風fの喧嘩に晒されたことどもは、親の感情に敏感になる。しかし、他方で風fの衝突を一度も経験しない子供は自力で問題に対処し、解決する術を身につけることができないかもしれない。夫婦が適切に喧嘩をすることは子どもの教育にもいいのかもしれない。

 

イギリスの研究では、赤ちゃんの泣き声で起きるのはやはり女性のようだ。進化論的には、女性は子どもの潜在的な脅威に対応するように進化し、男性は一族に対する大きな脅威に敏感になったのかもしれない。言い訳ではないが、これは男性を理解する上で役に立つのかもしれない。

 

妻は、夫が子育てをしないと苛立つが、子育てをしようとしても結局夫の育児能力を問題視するなどして、自分でしてしまう。これは、母親の門番と呼ぶ。確かに、夫の力不足もあるかもしれないが、妻がとおざけている可能性もある。

 

妻は、ジャッジされることを恐れている。例えば、子どもの服が汚れていた時、夫がきちんとしていないと言われることはないが、妻がきちんとしていないと言われることはあるだろう。これは、歴史的な負の遺産である。男性は、女性が、歴史的な負荷を背負っていることを忘れてはならないだろう。

 

アメリカの研究によれば、男性は、暇な時間を持つ資格を持つと思っていることが多い。妻は夫に手伝って貰えばストレスが下がるが、妻が家事をしている間に夫が趣味に費やせば夫のストレスが下がる。

 

配偶者への愛や感謝を伝えないことは見過ごしがちな夫婦関係の殺し屋。

 

妻の癇癪。それは言葉による虐待である。クソ野郎、かす、お前なんて大嫌いだ、これは言葉による虐待であり、虐待者に他ならない。怒れる被害者。被害者ぶるのをやめる時だ。言葉による虐待。子供も見ている。

 

FBIによれば、誰でも敬意を求める。テロリストであっても。まずは敬意を示そう。

 

男性の家事への参加率は離婚率を下げる。

 

男性の家事や育児への参加率は、娘に大きな自尊心を得ることができる。このような娘は、ちょっと変わった仕事を選ぶという。単純労働は女性が行うものというイメージから脱却させることができる。

 

男性の協力が得られるのは、男性に参加してほしいと主張できる女性である。断られたとしてもそれは第一ラウンドだ。

 

同性カップルの家事分担はどうなっているのだろうか。伝統的な価値観に縛られている異性夫婦より適切な分担ができているのではないか。

 

家族の来歴を知っている十代の若者は気分の落ち込みが少なく、対処技術が高く、自己肯定感が高いという研究がある。これは、家族の物語が世界や自分を理解するための大きな語りの枠組みを提供するからではないか。数世代にわたる継続の感覚が、安定したアイデンティティを促すからだろう。

 

子供が願い事をすると、親との時間を持ちたいとの言葉が聞こえてくるかもしれないが、実際には夫婦のストレスが低いことを祈っているという。

 

子供が家事の手伝いをするのを、実際にそれができる就学後にさせるのは間違いかもしれない。子供は、小さい頃は親の仕事を手伝いたがっており、これを小さい頃から習慣化させることが大事である。私たちは、子供たちに家事をさせてはならないと過度に思いすぎている。助けてくれた、より助けてくれる人、という言葉掛けの方が良い。お小遣いと手伝いを切り離す。

 

子供に話しかけるときは、子供がやりたくなるように。冷蔵庫に◎◎が会ったら嬉しいと思うから、買い物に行こう。

 

服を着てもらえるかな、は子供に親の言葉に従うことを当然視させてしまう。そこで、着てね、という。

 

子供は遊び上手だ。知育玩具がなくても遊べる。

 

親との衝突を避けてきた子供は、友達からのプレッシャーに弱い。

 

なんでもいいから、一日15分でいいから、夫婦で会話をする。事務的な会話ではなく。

 

親の好きなこともしよう。人生は短い。

 

相手への感謝を伝え、不満があるときは、アイメッセージ(あなたはなぜできないの?ではなく、私はそれがされていなくて悲しい。)を伝え、察してもらえることを期待しないことが大事。良好な夫婦関係こそ子供にあげられる最も大事なものかもしれない。

子育ては、言葉ではなく行動。子供が見ているのは言葉ではなく親の行動。

 

宇宙の話をしよう

 

科学の偉大な学者は孤独か。本書に出てきた多くの学者は幼少期孤独であったらしい。そこまで孤独ではなくても、科学が好きすぎて、小さい頃に友人と話が合わない人もいたのではないだろうか。それでも、好きなものがあることは素晴らしい。好きなものを曲げて周りに合わせても、結局幸せになれないのかもしれない。好きなものは好きでいい。そう思わせてくれる一冊。

 

宇宙開発は、お金がかかる。純粋に宇宙に行きたい気持ちだけでは難しすぎるだろう。だからこそ、宇宙と政治・戦争は関係してしまう。

 

初めて宇宙空間に行ったロケットは、ソ連スプートニク1号とされている。しかし、初めて宇宙空間に出たロケットは、ドイツのV2ロケットのようだ。スプートニクが初めてと言われているのは、V2がサブオービタブル飛行、すなわち、地球の周りを回り続ける軌道飛行ではないから、要は打ち上げて宇宙空間に出て、すぐに落ちたからだと。でも、本当は?ナチスがV2を開発したことが原因ではないかと。

 

ドイツのフォンブラウンは、ロケット開発したさにナチスに協力した。フォンブラウンは、最終的にはアメリカに亡命し、アメリカでもロケット開発に協力した。フォンブラウンは、陸軍に所属していたが、ロケット開発では、海軍と対立し、海軍が開発した純アメリカが開発したロケットの方が優先させられたらしい。いかに政治に左右されているかがわかる。

当時の宇宙開発は、今と違って民間機関を頼ることができず、資金があるのは軍ぐらいであろう。では、それでも研究開発はすべきだったのか?政治利用、戦争に利用されることをわかっていながら。しかし、現在の立場から単純に断罪しても良いのだろうか。

 

アメリカのロケットの父、ゴダートは、「何かを不可能と決めつけるのは無知のせいにすぎないと、化学は教えてくれた。・・・科学は繰り返し証明してきたのだ。昨日の夢は今日の希望となり、明日の現実となることを。」

 

宇宙開発を夢見る、というか、科学者を夢見る少年少女に読んでもらいたい1冊。

法哲学と法哲学の対話

一人の学者の研究について、別の研究者が反論し、また再反論が行われる。研究者同士で反論し合っているわけであるが、結構辛辣なコメントが目立つ。研究者同士仲が悪くならないのか別のところが気になってしまう。内容は法哲学だけに難しく、理解することが難しい点も多かったが、このようなやりとり、反論再反論を行って議論が深まっていく面はあると思うので、とても面白い試みに思われた。

 

 内容として感じたことは、人間の傲慢さである。近年、動物愛護的な活動が起こり、それ自体はとても好ましいように思う。しかし、動物愛護的活動が強くなりすぎて、人間に近い権利を認めるとの主張も見られる。しかし、このような主張は可能であろうか。人間は、というか動物は、他の生命体を食べて生きている。他の生命体の死を前提として生きているのである。しかし、その対象である生き物に対して人間と同等の権利を認めようとするのは、人間の完璧さを求める傲慢さではないだろうか。そひて、潔癖さの現れではないだろうか。もし全ての動物に人間と同じだけの権利を認めれば人間の生活はままならないだろう。それにも関わらず、それが可能だと思うのは、人間の傲慢さではないだろうか。というか、その完璧さを求めるのはしんどいだろうと感じる。「エゴイスト」であってはいけないのだろうか?エゴ、自身の欲求を過度に敵対視してしまっている。近代社会に対する反動が強すぎる。

 

 道徳的議論は、その良し悪しを論じずに可能だろうか。ゲイなどマイノリティの権利を議論する時、ゲイが妥当かどうかという評価的な問題が前提にあるのだろう。しかし、そもそも、道徳的評価を外して議論はできないか。例えば、性的な自由、そもそもプライヴァシーの権利である。プライヴァシーで保護されるのなら、ゲイが良いかどうか判断する必要はない。これは、それぞれの自由を最大限守り、かつ、多くの人に受け入れられるという観点からは重要な保護の仕方に思える。しかし、それでは新しい権利は実現できない。新しい権利を実現する場合には、おそらくその道徳的評価を回避しないことはできないのだろう。

 

 平等とは何か。物事は平等である。ある観点からすれば。問題は、どのような観点からの平等を実現するかである。

【感想】青くて痛くて脆い 住野よる

あー!青いなー!と叫びたくなる作品。個人的には君の膵臓を食べたいより好きです。いや、両方好きです。

 

 人に不用意に近づきすぎないことを信条に生きている主人公は、理想と情熱に燃える秋吉に出会った。自分と正反対でありながらも、その姿に憧れを抱いていく主人公は。。。年月の経過とともにどのようなことを思うだろうか。

 時間が経っても変わらないものなんかない。青春時代は特に移ろいやすいもの。だから、永遠なんてない。時の流れについていけない主人公が秋吉に抱く気持ちはわかる。自分が大事にしていたものが変わっていくのは悲しいし、辛い。でも、それでも、秋吉といたいなら、主人公は選択しなくてはならなかった。傍観者でいるのではだめだ。

 相手に理想を押し付け、その理想が変わらないことを求めるなんて、なんて傲慢なんだろう。

 自分の傷つきが相手にわかるのかと伝えるその傲慢さは、そのまま本人にも当てはまる。君は、傷つけていなかったのかと。それにも気づかない青さが、痛くて、脆い。

 悲しいのは、誰も悪くないことだろう。誰かが悪意を持っていたわけでもない。ただ、それぞれが自分が生きたいように生きていただけ。それぞれがそれぞれの生き方をしていたにもかかわらず、偶然交錯した互いの人生は尊いが、逆に言えば、それは容易に離れ得るものだ。その偶然の奇跡を後生大事にしておくことはできない。それは、宝物のように思い出にできる奇跡だけれど、永遠に続く奇跡ではない。

 自分ルール。

 完璧である自分。

【感想】男が痴漢になる理由☆☆☆☆

 なんで痴漢をするんだろう。そして、どうしたら痴漢を止められるようになるんだろう。そんなことを考えながら手に取った本です。

 そもそも、痴漢は日本で多くされる犯罪(海外ではChikanと呼ばれる。)であるにもかかわらず、日本で研究が進んでいないのです。

【内容】

 性犯罪は暗数があることが有名です。見つかっていないけど、実はたくさんあると。アメリカの研究によると、一人の性犯罪者が生涯380人の被害者を産むと言います。

 性加害者は、どのような人か。強姦や強制わいせつの加害者は、無職が2、3割と通常の犯罪者と異なり、また、既婚者が半数以上を示しています。データをまとめると、痴漢の加害者は、四大卒の勤め人、既婚男性が典型イメージになります。

  痴漢加害者が初めて痴漢をする平均年齢は33歳、初めて逮捕されるのは平均41歳である。

 痴漢加害者でボッキしている3割、していない人5割、どちらもある人2割である。結婚し、夫婦生活がある人の中でも痴漢をする人がおり、必ずしも性よく解消が目的とされているわけではない。

 では何が原因か。それは、支配欲、男性性を強調することは自己コントロール感を強めるのでしょう。ゲーム感覚やスリルなどもあるでしょう。

 ではどのように解決すべきか。痴漢の前後では、マスターベーションの回数が増えます。性欲と他の支配感などの感覚、ストレスは結びつきます。そこで、マスターベーションを手放す、回数を制限して管理をすることが一つの方法です。制限すると、意外と我慢できる人がいるようです。

 また、インターネットの掲示板で相互に評価し合うことで、痴漢が強化されることがあるため、見ないことも重要です。

 海外では、未成年に対する性犯罪者に対して、インターネットの利用を制限することが可能となりました。

 痴漢犯罪者が犯罪を辞めるきっかけとして多いのが、逮捕です。しかし、逮捕されても起訴されないことが多く、甘く受け止めてしまうことにも繋がりうるものです。

 平成27年度の犯罪白書によれば、痴漢の1回目の再犯率(約17%)は、強姦とほとんど変わりませんが、2回目の再犯は、単純強姦で数%であるが、痴漢は24.8%、3回目の単純強姦の再犯は0.8%で、痴漢は42.7%となっており、再犯率が際立って高い。

 著者は、裁判に証人として呼ばれ、再犯防止プログラムの説明やその効果を説明するそうですが、あまり司法の業界に再犯防止プログラムは知れ渡っていないようです。また、寒々しい謝罪文が読まれているとの感想でした。

 

【感想】

 さて、逮捕が再犯防止において重要なきっかけになっているとのことですが、司法、すなわち法曹三者はこれに真剣に取り組んできたのでしょうか。

 司法修習中、弁護修習、刑事裁判、検察をめぐることになります。

 しかし、弁護では、被疑者に黙秘権など弁護上必要な話をするにとどまり、再犯について真剣に被疑者と話さない弁護士が少なくありません。また、検察も、被疑者に説教をするだけであり、被疑者のどこに問題があるかわかっていないまま、強く指導するにとどまっています。指導することで犯罪がなくなればいいですが、そんなことはあり得ません。裁判所も事実認定や手続進行が重要であり、法廷を再犯防止の場にふさわしい状況にしようとしていません。

 法曹三者は、刑事裁判において、事実認定や刑事手続については詳しいが、犯罪については無知、なのだと思います。そして、それを恥ずかしいと思ってさえいないことに非常に驚きを感じました。

 この無知は、同時に弁護士の力量不足も感じます。弁護士が被疑者に不利なことをきちんと話せる対人折衝能力を欠いているところがあると思います。また、検察官は再犯防止に取り組んでいるという看板を掲げつつ、実際何もできていないのかもしれません。

 法曹三者がまず犯罪というものを知る。まずはそこから始めるべきなのだと思います。

【感想】国際人権入門

司法修習の講義で国際人権法があったため、読んでみました。

日本では国際法は裁判などでもあまり活用がされていない。そもそも、大学で学ぶこと自体が少ない科目である。司法試験の選択科目になってはいるが、選ぶ人は最も少ないという悲しい科目である。でも面白い。

 

ヨーロッパに留学したときには、国内法の授業でも国際法やヨーロッパ人権裁判所の話が出てきていた。国内法との関係、優位性を明らかにするためだと思う。しかし、日本の国内法、例えば、民法や刑法、民事訴訟法や刑事訴訟法を勉強したときにそのような話はほとんど出てこない。本来であれば、国際的な基準も勉強すべきなのだろうが、これは、日本が国際的に遅れているからなのか、そもそも他国との関連が乏しく、そのような発想にならないのかはわからない。

 

人権条約(自由権規約子どもの権利条約など)は、個人通報制度を設置している。人権侵害を受けたと主張する個人が、国内で利用できる救済手続きを尽くした後に、国を通さずに人権条約の委員会に救済を申し立てられる制度である。しかし、日本はこのような制度を条約に批准しているにもかかわらず、使用できない状態になっている。国際機関からいろいろ言われるのは面倒ではあるのだろうが、やはりこのような制度を取り入れていかないと、国際的な人権基準に達しないのだと思う。

 

国際人権法は、国際的な基準から人権が遵守されているかを判断することができる。これは、遠い国の話ではなく、日本の問題でもある。例えば、入管法では、容疑者と疑われる場合には、事実上無期限の収容が可能になっている。刑事訴訟では原則23日にとなっていることと大違いである。上記の個人通報制度において、オーストラリアではこのような収容が違法だと判断されたこともあり、通報制度の受諾が待たれるところである。もともと、国の制度というのは、権力や先例に基づいて、個人の属性に関わらず腐敗しやすい性質を持っている。だからこそ、腐敗していないかをチェックする機能は絶対に必要なのだろう。

 

また、かつて国籍や人種を理由として公衆浴場が外国人の立ち入りを拒否した事件があり、これは不法行為ということで裁判になった。そのとき、店主の言い分としては、このような差別が禁止されていれば、他の客にも強く言えたのに、ということであった。おそらく、他の客から外国人がいるのであれば銭湯にこないと言われたのかもしれない。確かに、店主も悩んだ結果なのかもしれない。そういった意味で、法律で明示的に差別を禁止することも重要なのだと思う。

 

これらは外国人の問題でもあるわけだが、最近の奨学金の問題も人権の問題である。社会権規約では、教育を受ける権利が保障されており、自由権規約ほどの強い義務はないが、不断の努力がなければ義務違反となる。現在、奨学金の返済が問題になっている。法曹になるには、現在では、4年間の学部、2年間の大学院、1年間の司法修習、大学院卒業から司法修習までの無職期間も含め、約8年間かかる。さらに、司法修習は修習に専念させ、就労を基本的に禁止しているのに、月額13万5千円しか支給されない。これで生活するのは無理である。法学は参考書も高い。そのため、司法修習でも借金をする人がいる。このような制度を作った人にも苦悩はあったのだろうが、修習生の人権を何ら考えていない制度であることに間違いはない。

 

国際人権は、今の制度を別の視点から疑うことができる意味で、非常に示唆に富むものであると思う。もっとも、国それぞれに文化や歴史があるのだから、その辺りも考慮しながら考えないと、あまり意味がないのだろう。

【感想】壁の男

壁の男、貫井徳郎著者。

 

 たいしてうまくない絵を家の壁に描き続ける男。次第に町中の人が書いて欲しいと頼み始め、町は、絵で有名になっていく。しかし、なぜ彼は絵を描き続けたのだろうか。

 

 ミステリー、と言われればミステリーなのだと思うけれど、どちらかというと心温まる感じがする。悲しい部分もたくさんあるんだけれど、読後にはそこまで残らない。ああ、そうだったのか、と心温かく納得してしまう。

 これから先、大人になればなるほど、才能(努力?)の差は明らかになっていく。それは決して生まれた時からのギフトではないのであって、積み重ねのはずなんだけれど、才能の差を感じざるを得ない時がある。本当は、人と人との間を隔てるものはないはずなのに、才能に対する劣等感が邪魔をする。劣等感を感じるなら頑張ればいいのだろうけれど、頑張るほどの気力を失った年齢になった時、私たちはどのようにすれば良いのだろうか。若いときに気づければうまくいくかもしれない。でも、年取ってその差に絶望したら。