イアン・マーキュアン

本作は、英国の裁判官が子の利益について葛藤する小説である。

 

未成年者は17歳、エホバの証人であり、直ちに輸血をしなければ死んでしまう病に侵される。病院は治療(輸血)の許可を求めて、初老の女性裁判官に申し立てる。

もし、18歳になっていれば、未成年者は成人として扱われ、その意思は尊重される。しかし、いまだ18歳ではなく、未成年者であるゆえに、裁判官の判断によって輸血が可能になるのである。

 

本書を通しての感想

裁判官は、輸血の判断をするにあたって、細部まで検討を行っており、其の点は読みごたえがあった。しかし、文章全体から、裁判官の宗教に対する敵意が読み取れるように思えた。裁判官は、懸命に、未成年者が宗教における意見や表現を尊重しようとしていたが、その背景にある宗教の価値に対しては敬意を持っていなかった。そのため、子の意思を尊重しようとしているように見えるが、その意思の背景にある宗教を尊重していないので、尊重されない宗教を尊重する未成年者の意思は未熟な意思として捉えているように思えた。

 誰かの意思を尊重するにあたっては、その意思の背景にあるすべての価値を尊重することが求められるのではないだろうか。それは、自身の良心の赴くままに人を裁けば、自己の価値観に適合しない価値観を排斥し、表面的には尊重しているように見えても、本質的には未熟と切り捨てることになるのであろう。

裁判官は、最終的に輸血を許可する。反対していた両親も心根の部分では喜び、未成年者もあっさり宗教を脱ぎ捨てる。ここに、確かに、未成年者の意思の扱い方の難しさがある。裁判官も指摘しているように、発達途上の一時的信念で生命全体を放棄することは尊重されにくいだろう。

その後、未成年者は、裁判官に帰依し、自己を救った裁判官を求めるようになるが、裁判官はこれを拒否する。その中で、未成年者は、白血病が再発し、18歳になり、輸血を拒否して死亡する。裁判官にとってこれは宗教の衣を帯びた自殺のように思えた。裁判官の判断は正しかったのだろうか。

人は何かよりどころを持って生きている。それは、親かもしれないし、友人かもしれないし、宗教かもしれない。宗教をよりどころにしている場合、それを取り除かれれば、よりどころを失うかもしれない。失った当時、生命を喜んだ未成年者は、裁判官という新しいよりどころを認めたからこそ、喜べたのではないか。そうだとすると、裁判官にはどこまで責任があったのだろうか。そのあとの未成年者のアフターケアまで担うべきだったのか。常識的にはノーだろう。そもそも、未成年者がどこによりどころを求めるかは宗教を失ってみないとわからない。家族だった可能性も十分にある。しかし、予測できない。にもかかわらず、裁判官、司法が担えるのは、ある時点のある出来事のみである。もちろん、それの将来を見したうえでの判断であるかもしれない。しかし、将来問題があったときに司法は責任は担えない。

すなわち、本人の意思が害された結果による悪影響を司法は担えない。一方で、本人の意思が満たされたうえでの害悪は、本人が責任をもって自身で担うことができる。

司法は、結局、責任のある判断などできないのではないだろうか。

自分の人生を自分で決めていくこと、それこそが人生であるのなら、それを司法が邪魔していい理由などどこにでもないのはないか。

むしろ、17歳で輸血を拒み、死ぬことの、どこに、問題があるのだろうか。もちろん、未成年者は親から影響を受けて宗教を得る。自分で判断できないという批判もあるかもしれない。でも、自分のみの独立した判断など、この世界のどこにあるのだろうか。

 

ただ、これらも、司法は傲慢ではないか、という疑問を持っているものの感想であるわけだが。