法哲学と法哲学の対話

一人の学者の研究について、別の研究者が反論し、また再反論が行われる。研究者同士で反論し合っているわけであるが、結構辛辣なコメントが目立つ。研究者同士仲が悪くならないのか別のところが気になってしまう。内容は法哲学だけに難しく、理解することが難しい点も多かったが、このようなやりとり、反論再反論を行って議論が深まっていく面はあると思うので、とても面白い試みに思われた。

 

 内容として感じたことは、人間の傲慢さである。近年、動物愛護的な活動が起こり、それ自体はとても好ましいように思う。しかし、動物愛護的活動が強くなりすぎて、人間に近い権利を認めるとの主張も見られる。しかし、このような主張は可能であろうか。人間は、というか動物は、他の生命体を食べて生きている。他の生命体の死を前提として生きているのである。しかし、その対象である生き物に対して人間と同等の権利を認めようとするのは、人間の完璧さを求める傲慢さではないだろうか。そひて、潔癖さの現れではないだろうか。もし全ての動物に人間と同じだけの権利を認めれば人間の生活はままならないだろう。それにも関わらず、それが可能だと思うのは、人間の傲慢さではないだろうか。というか、その完璧さを求めるのはしんどいだろうと感じる。「エゴイスト」であってはいけないのだろうか?エゴ、自身の欲求を過度に敵対視してしまっている。近代社会に対する反動が強すぎる。

 

 道徳的議論は、その良し悪しを論じずに可能だろうか。ゲイなどマイノリティの権利を議論する時、ゲイが妥当かどうかという評価的な問題が前提にあるのだろう。しかし、そもそも、道徳的評価を外して議論はできないか。例えば、性的な自由、そもそもプライヴァシーの権利である。プライヴァシーで保護されるのなら、ゲイが良いかどうか判断する必要はない。これは、それぞれの自由を最大限守り、かつ、多くの人に受け入れられるという観点からは重要な保護の仕方に思える。しかし、それでは新しい権利は実現できない。新しい権利を実現する場合には、おそらくその道徳的評価を回避しないことはできないのだろう。

 

 平等とは何か。物事は平等である。ある観点からすれば。問題は、どのような観点からの平等を実現するかである。