なぜ君は絶望と戦えたのかー木村洋の3300日

光市母子殺害事件の被害者の夫であり父である木村さんの物語

 

法曹三者の一人として、是非読んでおきたいと思った一冊。

直接体験していない私がこの本を読むだけで体温が上がる一冊。読んでいるだけで目頭が熱くなり、感情が混濁し、抑え切れなくなる。本人の気持ちはどれほどだろうと考えずにはいられない。

 

この事件をきっかけに、被害者への支援制度が立ち上がっていく。他方で、被害者への配慮がなされていないことを知りながら、それに手当てをしてこようとしてこなかった法曹三者の歴史でもある。法曹になる者として、反省しなければならないと思う。そして、現在の制度でも、制度の被害者になっている人はたくさんいると思う。被害が現実化する前に、これに向き合っていくことが法曹三者には求められるのだろうと思う。

 

「君は、この職場にいる限り、私の部下だ。その間は、私は君を守ることができる。裁判は、いつかは終わる。一生かかるわけじゃない。その先をどうやって生きていくんだ。君がやめた瞬間から私は君を守れなくなる。新日という会社には、君を置いておくだけのキャパシティはある。勤務地もいろいろある。亡くなった奥さんも、ご両親も、君が仕事を続けながら裁判を見守っていくことを望んでおられるんじゃないか。」

 木村さんは、仕事を通して社会に関わる中で自尊心を取り戻して、回復していく。社会の絆がどれほど本人にとって価値があるかを思い至る。

 

 木村さんは、一審判決前に遺書を書いていた。死刑判決にならなければ死ぬ覚悟であったという。亡くなった妻を見つけたとき、抱いてあげられなかったとの思いから自責の念を強めていた。何ら落ち度のない被害者の立場であるにもかかわらず自分を責めていたのである。被害者の立場を慮ってあまりある。

 一審において、遺影を傍聴席に持ち込むことは許可されていなかった(現在では改善されている。)。この時、裁判所、裁判長からは、遺影を持ち込んでいけない理由の説明もなく、裁判官と会う機械させ与えられなかった。このような姿勢は、裁判所の独善的な形を物語るものだと思う。もちろん、裁判所としてできることとできないことはあるだろう。ただ、誠意を見せるかどうかで物語は全く異なる。実際、木村さんは、高裁が死刑判決を下さなかったときにも、判決文から裁判官の苦悩を読み取り、1審ほどの反発を見せなかった。どこまで裁判官が誠意を見せてくれるかどうかなのだと思う。

 裁判官は、被告人が反省したと評価することはあるが、果たして本当にそのように評価する力量があるのだろうか。疑問である。

 木村さんは、死刑判決後、被告人と会っている。そのとき、被告人は、公判廷での立場と異なり、反省の弁を述べ、死刑判決の価値を話していた。死刑判決にはどのような効果があるのだろうか。死刑判決を受けることで、自身の命を脅かされたとき、犯罪者は、命の価値を理解するのだろうか。死刑判決には、命の価値を理解させる価値があるのだろうか。

【感想】文系大学教育は仕事の役に立つのか  

 

 心惹かれるタイトルである。理系と比べて職業に直結せず、文系教育は意味がないと言われ、企業からはコミュニケーションの能力が欲しいと言われる昨今、文系教育は役に立っているのか。以前、大学院の小論文で、親戚から文系の大学院なんか仕事の役に立たない場所に行って何の役に立つのかと言われたときに、どのように反論するかが問われたことがあった。文系教育は世間から役に立たないと言われていると大学院も危機感を持っているのだろう。

 

【内容】

 

 理論に加えて、実社会とのつながりを意識した教育を行うこと、チームを組んで特定の課題に取り組む経験をさせることに対して、企業から大学への期待が高い。一方で、大学は、専門分野の知識を学生にしっかり身につけさせること、専門分野に関連する他の分野の基礎知識を身につけさせることに比重があり、大学と企業にはギャップがある。

 

 研究では、採用担当者が大学時代に意欲的に取り組んでいなかった場合、大学教育が役に立つとは考えなくなる傾向が見出された。

 

 人文科学系でも差があり、教育学部がもっとも大学教育が仕事に役立つと捉えている。その根拠としては、教育が仕事に役立つことを意識してなされていること、                                        教育の双方向性が高いことである。また、ゼミの密度の高さも将来の判断スキルや交渉スキルの高さにつながっている。   

 

 在学中の就業体験と学習内容との関連が高いほど、職場での大学知識の活用度が高く、インターンシップのような就業体験だけでなく、広く学習と関連する体験を持つことが重要である。  

 

 資格を取得するのは、学歴が低い大学の学生が学歴をカバーするために取得するのではなく、学歴の高い人ほど資格を取得していた。

 

 そもそも真面目に授業に取り組んでいない人ほど大学時代の勉強を役に立たないと思っている。

 

【感想】

 

 法学部では、将来の進路が様々であるし、そもそもゼミも必要的ではなく、授業は淡々と法理論を進めていく。そうすると、法学部は、潰しが効くわりに、仕事に役に立っている感覚は鈍いのだと思う。他方、法科大学院は、司法試験という明確な将来に向けた教育であり、ソクラテスメソッドという双方向性、学生が自主ゼミを組むなどの密度の高い勉強を考えると、満足度は高いと思える。しかし、法科大学院で学んで良かったという話を聞くことは少ない。なぜか。非常に疑問である。そもそも、司法試験という明確な将来に向けた勉強になっていないのだろう。そもそも教職と比べて、試験が難しすぎて、試験合格後に必要なスキルを学ぶという意識も育ちづらい。ソクラテスメソッドも、教授によっては、単なる吊し上げに終わり、双方向に議論をして理解を深めるという形にはなりにくいのだろう。そう考えると、法科大学院の授業は、かなり絶望的な気配を感じる。

 もっと試験に直結した授業、もっとも双方向性を高めて学生の理解が深まる授業にしていかないと、無用の長物になりそうで怖い。

 また、大学でもっとも学ばなければならないのは、自ら勉強をしていく姿勢なのだと感じた。それだけあれば、あとは自分で勉強して何とかなる。そういった姿勢を学ばせる、学ぶことに意義を見いだせる授業が増えればいいと思う。しかし、法律に関連する指導者は、指導の仕方が下手だと思うが、これいかに。

【感想】 BECOMING(マイストーリー)

 ミッシェル・オバマの自叙伝。決して裕福とは言えない環境から、成り上がったミッシェルが、バラク・オバマと結婚して人生が一変する。そんな人生の軌跡を描いた話。

 

【内容】

 子どものころは、努力の音を聞きながら育った。

 うちの両親は、私たち子供に対しても大人相手のような話し方をした。説教をすることはなく、どれほど幼稚な質問でも全て受け止めてくれた。面倒だからと言って会話をさっさと終わらせようとすることは一度もなかった。母も父もルールというよりもガイドラインを与えてくれた。

 バラクは社会の大きな問題にこだわり、自分がそれをどうにかできるかもしれないという無茶な考えを抱いていた。それまでも私の周りはみんないい人で、重要な社会問題について気にかけてはいたが、結局優先するのは自分のキャリア形成と家族を養うことだった。

 コミュニティ振興に取り組む上での最も大きな壁は、人々の中に、特に黒人の中に深く根ざしている無気力だという。

 私の友人の多くは将来のパートナー候補を評価するとき、まずは見た目や見込める収入といった外面に目を向けた。

 周りよりも秀でることをただひたする目指し、物事を完璧にこなさなければならないという義務館に従った結果、私はどこかで間違った道を進んでしまったのだ。学生時代は何年もあったのに、私は自分の情熱とじっくり向き合い、それを自分にとって意味があると思える仕事にどうつなげるかを考えたことがなかった。

 私はずっと無視と共にに生きてきた。無視の歴史が私のルーツだ。

 自分自身と自分の意見を知ってもらい、自分にしかない経験を本音で語ることには大きな力がある。他者を知ろうとし、他者の意見に耳を傾けることは美しい。人はそうやって前に進んでいくはずだから。

 

【感想】

 ある意味で、ミッシェルは、典型的なアメリカ人なのだと感じた。黒人の弁護士が少ない中で、自身の努力で成り上がり、世間的に成功だと言われる職業に就く。アメリカンドリームを成し遂げたと言っていいだろう。しかし、自分のキャリアを築くこと、キャリアに価値を重くおきすぎる傾向も見られる。もっとも、ミッシェルは、オバマとの出会いの中で価値を置ける仕事を見つけた。いつだって人は変われるし、その美しさは変わらない。自分の能力を高め、実現できることは、自身の人生を誤らせてしまう。私も、司法試験に受かったとき、その社会的評価から大企業の就活が非常に簡単であったとき、自分のキャリアをどのように形成していいか分からなくなる時があった。自分を試せる、高めることができるのは、非常に誘惑に駆られるものだ。もっとも、それが悪いわけではない。本当にしたいことであるならば。

 マイノリティの中で生活することはとても厳しいものがある。ミッシェルは、家庭の方針で黒人訛りを矯正されて育った。これは、社会的に成功する上で必要なことだろう。しかし、そうすると、黒人の一部から、お高く止まっているとか裏切りだとか言われたりする。ミッシェルは、無視が自身の歴史のツールと述べていたが、黒人として、マイノリティとして差別されてきた歴史は、その人自身の中に大きく根差したものなんだと思う。このような背景を知らずに他者を理解することは困難だろう。

 そして、子育てにもいい本だ。ミッシェルの親は娘とソクラテス問答をしている。子どもに疑問を持たせることは非常に重要なのだろう。

【感想】 歴史に残る外交三賢人 ビスマルク、タレーラン、ドゴール

 著名な外交を行った人たちに関する著書。著者は、日本が米国に追従し、主権を放棄していることが、自身の国家の命運を他国に委ねているとして非常に批判的な立場から、日本を批判している。日本に対する批判は色々あれど、外交のあり方についてはとても面白かった。

特に、フランス革命を好きな自分としては、タレーラン、ドゴールはとても好きなので、とても面白かった。もっとも、本著は、主にビスマルクに焦点を当てている。

 

【内容】

 国際政治においてもっとも強力な覇権国をカウンターバランスとして、勢力均衡の状態を作ろうとするリアリズム外交のパターンは、古代ギリシャから現在までの間、木hん敵に変わっていないのである。

 ビスマルク

 ビスマルクは、明治時代、ドイツに訪問した日本の岩倉市切断に対して、助言をおこなった。それは、日本が列強諸国と並美、不平等条約を改正するために、近代的な法制度を整えようとしているが、国際法は自国の利益に敵わなければ破られるのが国際社会の現実であり、表面的には礼儀正しく振る舞う欧米列強も、実際は弱肉小国であり、まずは何よりも富国強兵をして実力をつけることが重要である。このアドバイスを受けて、日本は富国強兵に進んでいった。

 他方で、日本の問題は、外交政策と軍事政策をビスマルクのように大胆且つ攻撃的に行うものだと確信してしまった点にある。ビスマルクは、あくまで、慎重な非戦的な勢力均衡主義者だったのである。そして、ドゴール将軍は、ビスマルクについて、「ビスマルクが偉大だったのは、彼が自国の戦勝に慢心することなく、もうこれ以上のセンスは不要だと判断する能力を備えていたことだ。」と評している。

 このようなビスマルクの対応にもかかわらず、どいつが強くなりすぎたため、これを遅れた英仏露の山国を二度の世界大戦に追い込んだという考えがあり、ドイツの統一が国際政治システムを不安定なものとした。他方、アジア圏では、中国一興で国家同士がバランス取り合うという関係になく、勢力均衡という概念が浸透しにくい状況であった。

 ビスマルクは、自国の主義や思想や好き嫌いを外交政策に持ち込まず、勢力均衡に力を注いだ。世界政府がいない無政府状態を踏まえれば、自国の価値観を押し付けず、均衡を図る方が妥当だと判断したのである。

 ビスマルクが出世した背景には、とうじ陸相出会ったローンがアルバイトとしてビスマルクを雇った経緯があり、人生何が重要かわからないものである。

 普墺戦争に勝利したプロイセンは、大国を倒したことで、領土の割譲や巨額の賠償金を目論んでいた。しかし、大勝利に舞い上がっていた国王と軍部を押さえたのがビスマルクである。オーストリアを弱体化させすぎると、オーストリアからの将来の助力を失い、勢力均衡を保てないと判断したのである。大きな屈辱を与えても国際政治の問題は解決されないと考えたのである。政治家の任務は、二度と戦争を起きないようにすることであり、相手国を裁くのではないのである。ビスマルクは、五極構造(ロシア、フランス、イギリス、ドイツ、オーストリア)が国際政治の中心であり、三極が作る多数派に所属することを目標としていた。三極に所属すれば、その他の2極が三極に挑むことができない。戦争に勝つことと戦争後に政治的に有利な立場に立つことはまた別なのである。

 しかし、ビスマルクは、普仏戦争でフランスに勝利した際には、領土割譲をすべきでないと考えながらも、国民の要望に反対できず、アルザスロレーヌを割譲させた。ビスマルクは、「人生最大の失敗」と言っているが、これにより、フランスはドイツに激しい憎悪を向けるようになったのである。

 ビスマルクは、ドイツ国内においても、対立する主義主張を持つものに対し、巧みにバランスを保つことで反乱を防いだ。また、人類初の社会保障制度を創設したが、これは社会主義運動を推させるために、これらの主張をあえて汲み取ったのである。

 タレーランも、ビスマルクと同じ勢力均衡主義者である。彼は、ナポレオンが廃位された後、正統主義という考えを持ち出した。ナポレオン一人が加害者であり、フランス革命前の秩序にも同窓としたのである。そして、これを実現してしまい、革命前の領土を回復させ、賠償金の支払いもゼロになったのである。そして、どさくさに紛れてイギリス的な自由主義的な憲法を制定させ、ルイ18世に認めたせた。彼は一貫して自由主義者であったその信条を貫いたのである。また、他の4カ国は、ポーランドザクセンの領土問題で対立しており、タレーラン国際法を盾にこれらの国の独立を主張し、4カ国の間に溝を作り、勢力均衡を作ったのである。

 ドゴールは、アメリカの覇権主義外交を牽制し、拘束するを目標とした。中ソもアメリカに対して勢力均衡を維持する装置であり、イデオロギーに拘らなかった。そして、米ソの二極体制を解体してヨーロッパの自由を回復させるには、第三極が必要であると考えた(これは失敗した。)。国際政治の多極化を目指し、米ソが核を独占すること防いだ。多極化した国際構造だけが世界各国の独自の文化と価値規範を維持することを可能にする国際システムと考えたのである。ドゴールは、戦後の勢力均衡を保つために、従来の多数の強国の均衡がなくなったことを背景に、新たな勢力均衡を作ろうとしたのである。

【感想】

政治は、対局を見据えて行われるものである。将来を見据えれば、戦争を防ぐことが第一である。自国が強くなりすぎることが必ずしも自国の利益になるわけではない。アメリカは自然と強くなったが、ナポレオンのように積極的に均衡を崩して仕舞えば、良い結果を生まない。必要なのは、主観的な価値観で動くのではなく、対局的な価値観なのであろう。

【感想】フランス刑事法入門☆☆☆☆

 フランスの刑事法、刑法、刑事訴訟法、刑事政策に触れた本。日本の刑法はドイツに影響を受けている部分が大きいからか、フランスに関するものは少ないと思える。そのため、フランス刑法に触れる意味で、とても参考になった。

【内容】

 フランスでは、刑の下限が撤廃され、裁判官の裁量範囲が拡大した。これは、フランス刑法が制定された当時、裁判官に対する不信感に根ざしていたものを考えると、裁判官に対する信頼に根差すものである。

 フランスでは、卓越した人権意識に裏打ちされ、セクシャルハラスメント罪、モラルハラスメント罪、マインドコントロール罪など無知や脆弱性濫用罪の制定、子どもや障害者を対象とした犯罪や上司や被害者など権力を背景にした犯罪については、刑罰を課す際に加重事由として扱われるなど、「弱きを守り、強きをくじく」正義感に基づく刑法と言える。

 殺人罪においても、15歳未満に対するもの、尊属や養親に対するもの、弱者を被害者に対するものなど弱者や家族関係については加重事由になっている。また、人種や国籍、宗教などを理由に行われたものも加重事由となっている。

 家族関係に関しては、親権者が生命に対する加害などを加えた場合、親権の即時剥奪などの規定が追加されたこと、夫婦間の強姦が明示的に処罰対象になっていること、未成年者や配偶者の扶養義務を2ヶ月を超えて履行しない場合、扶養義務者が住所変更をしない場合、未成年者の引渡しをしない場合、面会交流をする場合に住所変更をしてから1ヶ月以内に通知しない場合、未成年者の健康を危険に晒す場合、刑罰が科される。

 未成年に対する性犯罪については、暴行や脅迫に限られず、心理的強制、すなわち、年齢の差や権限などを根拠にされた場合には事実上権限が推定され、密室で行われていることの多い性的攻撃罪の立証の困難性を被害者に有利な形で緩和している

 モラルハラスメント罪など、律法的解決を図ろうとすることは、社会全体で合意を図り、問題としていく姿勢であり、刑法という基本法こそ、社会全体の合意で行われるべきものであるという意識の表れのように思える。

 刑罰の中で、社会内司法追跡というシステムがある。その中では、携帯型電子監視措置がある。また、性犯罪者などのための治療施設が設立されている。

【感想】

 殺人罪などの加重事由は、尊属が削除された日本との違いがある一方で、実際に裁判に対しては未成年者に対するもの、弱者に対するものについては加重事由になりえ、日本と大きく違いがないように思える。問題は、加重事由がほとんど法定されていない日本との違いであろう。そういう意味で、裁判官の信頼が少ないとも思えるし、重要な点は話し合いのもとで律法により解決するという姿勢が目立つ。

 家族の問題に対しても、積極的に刑罰を科す姿勢が見られる。家族の問題は、安易に刑罰で立ち入りにくい面があり、逆に、当事者の中でも、多少問題があっても法的な問題ではなく倫理的な問題と、または、倫理的な問題ですらない当事者同士の問題として捉えているものも少なくないだろいから、刑罰を貸すという視点は非常に重要だと思う。日本でも、刑罰をかして、家族の問題についても、一定の法規範性を持たせることも一つの考え方であると思う。特に、養育費を払わないことに対する刑罰は、支払わないことはネグレクトに近いと思うから、必須のように思う。

 以前、フランスの少年法政策について勉強した時も、たびたびフランスでは法改正が行われていた。社会の実情に合わせて、日本においても現場で様々な工夫がされているが、現場の工夫には限界がある。社会の実情に合わせて法律を改正していく、社会を考えていく姿勢というものが何よりも重要なのだと思う。

 海外の法律を学ぶと、日本法の遅れを感じることがある。しかし、海外で改正された法律が、設立された主旨の通り実際に運用されているかはわからない。例えば、モラルハラスメント罪が設立されたとしても、立証の困難さからあまり昨日していないかもしれない。逆に、日本ではそのような罪がないとしても、刑法や行政罰などでうまく対応している部分もあるかもしれない。ここら辺は、単に海外の法律を学ぶだけではわからない。だからこそ、単に隣の芝生を青く見るのではなく、深く学び、日本法に活かすことが大事であると思う。

 ただ、やはり日本の裁判官はよくも悪くも硬直的であるし、社会的な世相を読む力も高くないと思う。だからこそ、絶え間のない法改正をして、社会を変革してくことが重要であり、この点においてフランスの法改正に学ぶべき点は多いように思う。

 

 

【感想】歴史秘話 外務省研修所ー知られざる歩みと実態☆☆☆

 日本の外務省研修所の歴史秘話。裁判所職員総合研修所、司法研修所の研修を経験しているため、研修所に思うことは多い。外務省研修所については、隣の芝生は青い、のだろうと思いながらも、良い研修所だと羨ましく感じた。

 

【内容】

 外務省研修所は、そもそもどのようにして生まれたか。

 日本は、欧米列強の圧力に圧されて鎖国を解禁した。不平等条約など不利益な地位に立たされ、富国強兵を目指し、西欧列強と対等な関係を築こうとしていた。その際、必要となったのが外交であろう。

 1919年に始まったパリ講和会議においては、戦後処理や国際連盟をはじめ、多くの委員会で話し合いが行われたが、日本は単に会議に出て記録するに止まるサイレントパートナーという不名誉な名前をつけられた。このような不名誉な外交に憤り、外交官改革が行われた。人材養成が叫ばれ、それがひいては、外務省研修所が設立につながっている。

 しかし、吉田茂は、戦前の外交の失敗を踏まえて外務省研修所を設立するに至ったが、やはり国際法の解釈や外国語の技術など技術面が重視されるようになったが、むしろ重要なのは外交に臨む外務省の姿勢であると述懐していた。

 吉田は、アメリカの大佐から、外交の勘のない国民は滅びる、と言われていた。

 英国人外交官ハロルド・ニコルソンがちょした「外交」(https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%96%E4%BA%A4-UP%E9%81%B8%E6%9B%B8-H-%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3/dp/4130050168

で7つの美徳が挙げられている。

それは、①誠実、②正確、③平静、④機嫌、⑤忍耐、⑥謙虚、⑦忠誠である。

 外務省研修所は、職員の語学力について、TOEICなど外的な基準に依拠せず、自身の基準に基づいて評価している。

 

【感想】

 外交官の美徳として、誠実が最初に挙げられているのが面白い。外交といえば、イギリスの三枚舌に代表されるような自己の利益に基づいた打算が重要に思えるが、そうではないのだろう。もちろん、自国の利益が第一であるというのはもちろんであろうが、国家間の長期的な利益を踏まえれば、相手を信頼できるかどうかは極めて大事な視点になってくるのだと思う。特に、同盟は、条約で合意されているとしても、容易に破棄は可能であろうし、それでも条約が結ばれるのには、相手への信頼が底にあり、そこには誠実さが反映されているのだと思う。

 外務省研修所が職員の評価根拠を他国や民間の基準に依拠せずに自国の基準を持っているのは大変重要であると思う。外交官の技術として言語は基本で重要なものであるからこそ、他国などに依存してはならないだろう。対して、司法研修所は、指導内容がはっきりしておらず、あまりにも場当たり的な内容となっており、こちらともあまりに違う。しかし、隣の芝生は青いのであり、どこも中に入ると色々と思うところがあるのだろう。ただ、大事なのは、研修所の設立主旨であると思う。教育の歴史を説明することも研修にあたっては大事だと思うが、研修所の多くがその点について省いている。すなわち、研修の哲学についての説明を省き、技術的なことにばかり目が行っているのではないかと思う。この点については、非常に残念である。その意味で、外務省研修所が戦前の外交の失敗を踏まえて設立されたのは、非常に興味深く読ませていただいた。

【感想】トラウマの現実に向き合うージャッジメントを手放すということ☆☆☆☆☆

 トラウマ治療に取り組んできた著者の考え方をまとめた書籍。全体として、専門家としての限界を理解しつつ、専門家としての専門性を高めることを強く意識していたと感じた。

 

【内容】

 トラウマ患者に信頼されるには、治療者の人間性だけでなく、トラウマについてどの程度の知識を持っているかが重要である。治療者かぶれは患者を傷つける。芯がないまま、状況に応じて行動が変わると、クライアントは不安になり、裏切りを感じる。芯を構築して接していくことが本当の信頼につながっていく。

 

 私たちがクライアント、誰かと接するとき、ジャッジメント、自身の価値観を押し付け、相手を裁いている。しかし、怖いのは、それが主観的価値観ではなく、客観的事実として相手に押し付ける形となるからである。特に専門家が自身の価値観を伝えると、専門家が言った言葉だから、として、概して自尊心が低下して自信を失っているものは、治療者の言いがかりすら信じてしまうのである。

 

 そして、トラウマはジャッジメントの対象になりやすい。なぜか。自分の想像を超えた体験であり、どのように解釈していいか分からないからだ。だから既存の知識を用いて解釈しようとしてしまうのだ。

 

 ジャッジメントは傾聴にも関わってくる。トラウマ体験者の話を聞く際、ジャッジメントをしながら聞けば疲れるが、ジャッジメントを手放せば疲れない。

 

 ジャッジメントは個人的な価値観である。一方、アセスメントは、同じようなトレーニングを受けた治療者であれば個人的なバックグラウンドが違っていても一致する評価である。そして、正しいアセスメントをできることが、ジャッジメントを手放す手助けとなる。ただし、ジャッジメントは、主観的な心の動きであり、一切しないことは逆にできない。だからこそ、ジャッジメントをしていることを認め、それに気づくことが何よりも重要である。

 

 では、そもそもトラウマ体験とは何か。トラウマ体験とは、コントロール感覚を失うことでもある。圧倒されるような出来事に直面し、体制を立て直さなければならない何かが起こっていることを知らせてくれるのがトラウマ症状である。フラッシュバッグで何が起きたのかを反芻するのも、実際に起きたことを理解しようとしているものである。すなわち、必要なのは、コントロール感覚を取り戻すことである。

 

 トラウマに対し、対人関係療法というものが取られる。その中で、人に話すことは重要である。その記憶を想起して、感情の体験を繰り返して馴化を進めることにあるが、これを最も有効に進めるための手段の日つつが体験を人に話すことである。そして、ここで重要なのが、腫れ物扱いせずに安心感を提供していくケアである。

 トラウマのケアにおいて、今は遭難しているけれども、脱出方法がありますよ、というのは大事である。治療を行うことで回復するという安心感がある。一方、私が全ての正解を知っていますよ、という態度はよくない。これは、患者のコントロール感覚を奪うことにつながる。

 罪悪感は、トラウマ患者以外においても治療プロセスを妨げる主な要因の一つであり、対処が必要なものである。回復のプロセスにおいて、自分自身への信頼を取り戻す必要があるが、罪悪感はそれに逆行するものである。何が症状であるかを知ることは罪悪感を減じるだけでなく、コントロール感覚の回復につながっていく。しかし、症状を知ることは、忘れているトラウマを思い出すことでもあり、前進であると同時に、強烈な役割変化が生じる。トラウマ症状が強烈に思い出されることが多く、不安感が強まるが、極めて正常な反応であって、永続するものではなく、回復のプロセスの一環であることを明確にしていくことが重要である。

 境界の設定が必要である。境界とは、ここまでは援助するが、ここからは援助しないという境である。これをうまく設定しないと、相手は裏切られたと感じてしまうし、援助する方も疲れてしまう。他方で、できないことは全て断るのも違う。そこは、断り方、相談には乗るが専門家ではない、というような感覚だろうか。

 

【感想】

弁護士をする上で重要なのは、やはり専門家として、相手を見ることである。そして、それは法律家として見つめるのであって、人間として相手を不必要に見ないことが大事なのだと思う。法律家は、事案を分析するのであって、人を分析するのではない。もちろん、事案を進める上で人を分析する必要はあるが、それは、分析をする上で必要な範囲ですることが重要なのだと思う。

家庭裁判所調査官がよく事件のことで愚痴、というか悪口を言っていた。なまじ心理の知識があるからか、心理学などの知識を用いて人の悪口を言っており、本当に嫌だった。これは、やはりアセスメントとジャッジメントの区別がついていなかったのだと思う。

また、弁護士は、有能感を見せることが重要である。信頼できる専門家として頼られなければならない。しかし、それが法的な知識としての全能感を超えて、問題解決や人間性に及んではならない。弁護士に依頼する当事者は、非常に困難な状態に陥っていて、自尊心が低下している人が多い。そのため、弁護士に頼るときに、弁護士が方的知識に限られない全能感を見せると、そこを無批判に迎合してしまい、弁護士の法律以外の専門知識がない部分の助言についても全面的に信頼してしまい、また、依存してしまい、自分のこととして事件を解決できなくなるのかもしれない。やはり、「法律の専門家であって、人間の専門家ではない。」という戒めを忘れてはならないのだと思う。