【死神の浮力】
サイコパス、社会の中には二十五人に一人の割合で存在しているらしい。良心のない人間、どちらかというと共感性のない人間のことを指すのだろうか。
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「強い種類の生き物が残っていく。それが生き物の決まり、て言うじゃない。四文字で言えば」
「弱肉強食か」
「自然淘汰か」香川が言う。「だけど、いまだに人間は、利己的人間ばかりになっているわけでもない。」
確かにそうだな、と私もうなずく。「なぜだろうな」
「何で、利己的人間ばっかりにならないんだんろうね」香川は言った後で、「残りの二十四人は、ちゃんとしてるから?」と怪訝そうに続けた。
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そんな人間がいるのであれば、特にそのような人間は能力に秀でいる。そんな人間に溢れていることにはならないのか。
最近サイコパスの脳はどのような脳かの研究が進んでいるらしい。これは遺伝の要素が強い。しかし、その研究対象者が必ずしも社会から逸脱しているわけではない。結局は社会に適応できたかどうかなんだろうか。社会適応の有無で、どの能力が発現するか変わるんだろう。
社会適応より、自身の世界に溶け込む生活を選んできた場合、それを優先させる生き方をしてしまうのだろう。
本書では、サイコパスは裕福な家庭に生まれ、自身の世界に耽溺するような人間だった。
しかし、サイコパスをどのように扱えばいいのだろうか。
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イヌイット族の「クンランゲタ」のことがまた、頭を過ぎる。
集団を乱す者、長老に叱られても罪を犯す者、クンランゲタと呼ばれる者のことだ。
学者が、「そういった人間とはいったいどう付き合っているのか」と尋ねると、イヌイットはこう答えたという。
「誰も観ていない時に、誰かがそいつを票がのふちから突き落とす」
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確かに、そうなんだろう。でもどうやって判別するんだろうか、それをサイコパスと。
良心はあるのに今は感じられないだけだとしたら。ただ育っていないだけだとしたら。
だから、そんなことはできないんだろうな。今の社会だと。でもそんな人とどうやって立ち向かえばいいんだろうか。
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寛容は自分を守るために、不寛容に対して不寛容になるべきなのか。不寛容になってはいけない。それは正義が勝つ、人は美しく、といった理想の絵空事から来るものではなかった。もっと悲観的で、現実的だ。「渡辺先生」は「寛容」は「不寛容」によって命を落とすことがあるかもしれない、とまで述べている。「寛容」にとっての武器は、「説得」と「自己反省」しかない、と心細いことも言う。ただ、「寛容」によって、「不寛容」は少しずつ弱っていく。「不寛容」が滅亡することはなくとも、力が弱くなるはずなのだ、と祈るような思いが書かれていた。
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良心をもった人間だと、相手がそんな人間だと、祈り続けるしかないのだろうか。
ただ、終わり方はとても残念。超人的な力で天罰を与える終わり方。
アンナハーレントの映画で、根源的な悪など存在しない、あるのは凡庸な悪だ、という話があったけれど。
サイコパスは、根本的な悪の社会における再登場なのだろうか。
根本的な悪は簡単だ。社会から取り除くことが許容されるものだ。だって、根本手に悪なんだから。でも他は違う。もしそれが根本的でないのだとしたら対処しなければならないし、みんなの問題ととらえなければならない。でも根本的な悪は違う。違うんだ。
だから、根本的な悪を論じるのは最後の切り札であるべきだ。いや、そんな切り札を持つべきですらない。
本書では最終的にサイコパスを理解しようとする試みは存在しない。だからこそ思う。わかりあえない、そうおもったら終わりだ。
ただ、それが根本的な悪だろうと、凡庸な悪だろうと、直接的な被害者からみたらどうでもいいことだ。だから本書ではサイコパスを理解しようとする試みは行われなかったのだろうか。