ミッシェル・フーコー-近代を裏から読む

フーコーは、私たちが自明視する世界のありようを、全く違ったしかたで見せる。「価値を変えろ!」と迫るその思想の核心に、どうすればたどり着けるのか?本書は、最高傑作『監獄の誕生』を糸口にフーコーの全貌に迫ることで、その思考の強靱さと魅力と、それを支える方法とを、深く広く、生き生きと描き出す。正常と異常の区分を生み出す「知」の体系と結びつき、巧妙に作用する「権力」。そうした秩序が社会の隅々にまで浸透する近現代を、フーコーはどう描き、その先に何を見定めたのか。魂を揺さぶる革命的入門書。」

 

 基本的には、有名な「監獄の誕生」を題材とした作品である。哲学本は興味あるけれどもとっつきにくい、というか難しいためその入門として本書を手にとった。本書は、フーコーのための格好の入門書である。この本を読めば、フーコーの原書を読みたくなること間違いなしである。フーコーは、「価値観を変えろ」と強く求めるが、フーコーを読むことは、現代社会をまた別の違った価値観から眺めることにつながる。

 

 そもそも監獄は代表的な刑罰であったか。実は、監獄が正式な刑罰として認められるのは18世期、フランスでは1791年、1801年のナポレオン警報を通じて自由剥奪系である監獄が刑罰の一部を占めるようになった。

 

 さらにそもそも、刑罰とは何のためにあったか。原始社会においては、呪術的な伝統的な秩序に反する行為は熾烈な行為によって罰せられた。絶対君主制においてのヨーロッパにおいては、王の秩序があり、刑罰とは王に反発する者に与えられるものであった。

 なお、脱線するが、過去には、半分有罪というものがあった。完全な証拠(例えば証人が一人)、半ば完全な証拠(目撃者が一人)、副次的な証拠(犯人の逃亡など)があり、証言の真実度が上がると厳しい刑罰が科された。

 

 さて、話を戻すと、近代に入って革命が起きた。王権に対する違反行為を罰する刑罰は意味をなさない。革命によって打ち立てられた民主主義の下での刑罰が行われることになる。

 では、民主主義のもとで監獄なのだろうか。監獄は、現在でもそうだが収監者の思考力を奪い、規律に従わせる。フランス革命によって、支配されずに自由に生きていくに人間が創造されたはずなのに、自由を奪い、自ら考えられない人間を生み出す監獄は矛盾ではないだろうか。

 では、革命のもとで守るべきものは何か。革命下の秩序である。革命政府は未だ不安定であり、それを覆そうとする者がいる。そして、彼らは普通の民衆を煽り、結託して革命を起こす。では、革命に反対する者を普通の人から隔絶させる装置が必要であり、それが監獄だったのである。ここでは、監獄による更生可能性は問題とならない。そもそも、監獄により更生が促進されないことは既にわかっていたのである。しかし、隔絶させることが当時の革命政府によって利益になる、ということである。

 本来、刑罰とは、犯罪と結びつくことが重要であり、これによって犯罪が抑止される(例えば、公道で強盗をするなら、公道の工事をさせる。)。そして、それを大衆が見て犯罪の意味を理解することが重要である。

 しかし、社会に適応する形で、監獄が誕生する。

 監獄は、規律が施される場所であるが、規律は、修道院や軍隊など限られた場所で施されるものであった。しかし、資本主義が発展し、従順な労働力が必要とされる社会において、規律が必要とされた。ここで、例外的だった規律が原則的なものとして現れていく。

 結局、監獄は更生に寄与しない。そうだとしても、監獄が失敗することは革命下の政府においては役立つことだったのだ。犯罪は社会が決める、政治的闘争である。

 

 なお、拷問や自白は、過去、君主の力を見せつける効果を果たしていた。現在も検察に当てはまるのかもしれない。

 ちなみに、現在は以上者に強い関心を抱く社会であり、異常者への介入が強い。精神医学もそうだが、児童心理学も通常の人間ではない子供への学問であり、異常者を扱う学問である。