落語の国の精神分析(☆☆☆☆)

落語が好きな精神分析家が落語について精神分析家として話す本。

「このことが、「落語とは人間の業の肯定である。」と言ったことの意味である。」彼は50代になろうとする頃、この言葉を書いた。現役の落語家がこれほど落語の本質を射抜く言葉を発したことは空前絶後のような気がする。落語は人間の不毛性、反復性、「どうしようもなさ」をまざまざと具現するものなのである。不毛で反復的な人間存在をいとおしみ、面白おかしく、愛情をこめてらわうパフォーミングアートなのである。」

心理学においてもしばしば課題になるのは、現実の自己と理想の自己が異なるなかでの葛藤だと思う。簡単に理想的な人生をあきらめることはできず、だからといって簡単に理想の自己になれるわけではない。そのため、葛藤してしまうのである。しかしながら、それはそれでつらい。変えられるなら変えたいものであるが、変えることができないので、悶々とする。でも「どうしようもない」のである。
笑うしかない、気にしても仕方がない。それが落語のようにも思う。落語が人間の業をあらわして、かつ、それを皆で笑うなら、笑うしかない物語なのである。落語を聞くことで、自分の人生を重く受け止めず、ただの話と受け止めることができるかもしれない。

「そうした文化的な媒介項を導入することが私たちが何とか「人間の自然」を取り扱い可能にするひとつの方法なのである。そうした文化の枠組みがなければ、「人間の自然」は私たちを圧倒し、その結果として私たちは現実から大きく逸れることで安全を確報するかしない。私たちは気が狂うのである。」
「職業柄経験するのは、知的障害や精神病をもつ人たちが私たちがにもたらす異物感、了解不能性、ある種の不安や困難の感覚は想像以上のものだということである。その今日ごを否認してごまかしていてはいい臨床はできない。嘘になってしまうからである。もちろんそれに圧倒されてもダメである。私たちの仕事はそのあいだで生き続けることである。そこで出会う可能性アあるのは、ほんとうのところ言葉で表すことのできない、むき出しの現実なのであり、「考えられない」ものである。それはビオンという分析家が「名付けようのない恐怖」と読んだものであり、それは私にとって..」

引用がめんどくさい笑
「自然でいること」が自然であるはずである。しかし、例えば精神病の患者に会ったらどのような感情を抱くだろうか。それは、了解不能感とともに、庇護すべき感情を抱くだろうか。同時に蔑みや嘲りもあるのだろうか。私たちはそのような感情とを統合しながら生きていくわけだが、そのような複雑な体験を通して私たちは人を愛しているわけである。それなくして、単に道徳的な考えに基づいて生きていくことは難しい。私たち、蔑みと愛の葛藤の中で生きていく...のかな。

などなどいろいろ話が出てきたわけだけど、この本で最も感心したのは、著者はどこまでいっても精神分析家なんだと感じたことである。落語の話を聞いていても、別に分析したいわけではないが、分析してしまう。そこには「精神分析家」としての性があるように感じる。その道を生きていく以上、彼の眼には世界は基本的に精神分析家としての世界が見えているんじゃないだろうか。

職業を選ぶということは、どんなメガネで社会を見ていくかにつながる。もちろん、その職業を選んだ時点で、その人が見たいメガネで社会を見いるんだろう。

しかしながら、最近人間関係の仕事を選んだからこそ、富に思うことがある。人の人生が自分の仕事で人を見るメガネと完全に無関係に見ることが難しくなっている。映画や小説を見ても、無意識に仕事のメガネが入ってくる。仕事を選ぶということは、やはり社会のメガネを選ぶことでもあるんだと感じる。だからこそ、見たいメガネの仕事を選ぶたい。

これは人間関係の仕事だからこそ、影響がつ要因だと思う。推測だが、商社の人間であれば、ニュースの流れを商社マンとしてみることはあっても、人間関係をそこまで仕事のメガネで見ないだろう。人間関係の仕事につくからこそ、その仕事は、その人の人生に強く影響していくんだろうと思う。そんなことを考えた一冊。